強大な地震に襲われた。いきなりの揺れで立っておれない。収まったかと思ったら、しばらく間をおいて体験したことのないより強烈な揺れ。目の前の結構新しい二階建てが大きく揺れて倒壊した。お向さんの平屋建て住宅がペシャンコになった。さぞかし大きな音がしていただろうが、不思議なことに全く記憶がない

令和6年1月1日午後4時10分、珠洲、輪島などの先端部を破壊した能登半島地震。帰省客とともに家族でくつろいでいたのだろう。多くの家屋が倒壊し下敷きになった人もいる。土砂や津波で家が壊された。道路が寸断され孤立させられた。

珠洲市では昨年5月5日にも震度6強の地震が起きており、後始末も終えていないところへ震度7超だろと言いたいくらい数倍の被害がでた。

幸いにも我が家では全員家の外へ逃げ出して無事であった。家も耐震施工が功を奏して被害を免れた。津波が心配のため寒い中、枯れ草のはびこる高台へ避難した。枯草でよかった。雪がなくて良かった。

急遽仕立てられた避難所で一晩過ごした。電気、水、食料はなくまさに着の身着のまま。廃校になった小学校の教室に50人余り、これが5室ほどあったろうか。不思議にも石油ストーブや布団も少しありその後、発電機で明かりも灯された。世話をして下さった方々に感謝である。

帰省していた子、孫を含め我が家12人は翌日、家で一晩過ごした後金沢へ避難してきた。通常は2.5時間のところ道路の割れや陥没、土砂崩れに車の多さが重なり13時間、やっとの思いで到着できた。可哀そうだったのが女性のトイレ。みんな心掛けていたのだろうか道中一回も用を足さずに済ませた。

子供家族はそれぞれの生活がある。爺と婆は親戚の家に身を寄せ一ヶ月が過ぎた。

電気は通った。昔から使っていた井戸を期待していたが水が上がらず、掃除してもらったりポンプを更新するなどしてようやく回復した。あとは給湯器につないで風呂が使えれば帰ることができる。

インフラが整わず物流もままならない中、支援物資だよりに避難所や損壊した家で生活している方はさぞかし辛いことであろう。それに比べて金沢での避難生活は、引き入れてもらっている親戚には感謝この上ないことである。勿体ないことではあるが田舎人間としては暇なのが困る。

今後、珠洲はどうなることであろう。わが集落でも家屋の全半壊が目立ち、これまで60戸、120人の住人が半減しそうな状況である。

怪我もなく命があったことはありがたいことである。この命を生かすには前向きに生きるしかない。

スイカ部会8名の仲間とともに甘いと言われる「能登スイカを作らにゃ!」

顔の見えるで出荷しているミニトマトいろいろ、サトイモ、金美ニンジン、紅しぐれ大根など、これまで購入してもらった消費者の方々に感謝の気持ちを込めて「作らにゃ!」

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