物好きで“蕎麦打ち”をしている。とは言っても年に一回、大晦日の年越しに食べるだけのものである。帰省の子供や孫の総勢12,3人で食べる。口数の少ない一族なので、「うまい」などとの言葉を聞いた覚えがなくただひたすら食べている。自分としては“これが本物の蕎麦だ!”と言いたいところである。
これも物好きで毎年、手伝ってくれる子供もいてまた、その子も手を出してくれたりして爺としては嬉しくもある。

六十数年前、小学校低学年頃だろうか、能登半島突端の辺ぴな所のこと、山を開墾した狭い畑で麦の中打ち作業を手伝いした。その前後のことは記憶にないが麦を作っていて、穫れた粒を街の業者に製粉、製麺してもらっていたように思う。8月お盆のことである。墓や仏壇にお供えされたうどんは仏様が使う箸代わりだったのである。
その頃、うどんは半自給生産で年に数回しか口にしない貴重食品だったのだろうか。でも、ソバを栽培していたという記憶はない。
蕎麦打ちを始めた頃はソバの実も栽培していた。米は種を播いてから5か月もかかるのに、ソバは8月盆過ぎに播種し2か月ほどの短期間で採れる優れものである。収穫が大変でタイミングを失すると実が落ちたりして刈り取り、乾燥、脱粒、調整と手間がかかる。刈り取ったはいいが、手が回らずシートに広げたまま腐らせてしまったこともある。製粉でも石臼挽きと表示された粉が販売されているように、製粉の際は温度が出てはまずいらしい。電動で小型の製粉機を使ったりしたが、やはり温度が出やすい。粉を購入するようになってからはできるだけ地元産の粉を手に入れようと思い、金沢や羽咋の製粉屋さんから分けてもらったがいずれも途絶えてしまった。などなどの経緯があり今では手作りを優先するためインターネットで粉を買って済ませている。

蕎麦打ちそのものは工夫しながら回数を重ねればそれなりに上手くいくものだ。多少の違和感はあっても口に入ればそんなもんだろう。ポイントは水加減かも知れない。水分が少ないと”のし”の際に割れるし多すぎてもいけない。最後は手を水で濡らす程度にこだわることもある。自分においては切りが苦手であるが、訓練が足りないのであろう。
残念なのは自作の蕎麦やそれなりの蕎麦屋で食べても美味いと思ったことはない。思うのは、一般のお店屋さんで食べる蕎麦は、蕎麦ではないと思うのみである。食べたくない。違うのは微妙な香りと歯ざわり、のど越し感が大事なのかもしれない。

挽きたてはできていないが、打ちたて、湯がきたての蕎麦を食べられるのは嬉しいことである。拘りとして実を作ることもできればこの上ないことである。栄養面でも蕎麦は良いらしい。月に一回は蕎麦を作ろうかと思ったこともあったが、年中やっている野菜栽培に余裕がなくてできていない。
家族含め近くにいる親戚や友達の分、合わせて35人前、まだ10年程は続けたいものである。
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